香港の公営住宅の居住空間の改善をしたことで「公屋之父(Father of public housing)」と呼ばれたマイケル・ライト(Alec Michael John Wright/●勵德)さんが1月26日、ロンドンで亡くなった。105歳だった。
産業革命を起こし帝国主義の時代、世界の盟主であったイギリスは世界中に植民地を抱え、統治するためのノウハウを持っていたことから、どうすれば香港市民を統治できるかよく分かっていた。ただ、イギリスにとって香港はあくまでも植民地であり、香港市民の生活をそれほど重要視していなかった。トイレの水は海水を利用していたほか、年金制度はついに植民地時代には整備されなかった。それは住宅政策も同様で香港仔に代表されるように水上生活者が多かったということは、中華系の香港市民への住宅政策を充実させてこなかったためである。
ライトさんは1912年に香港で生まれた。父と祖父は香港政府の公務員として働いていた。特にエンジニアを中心にキャリアを積んでいた父親の影響を受け、イギリスで建築の勉強をし、1938年に香港政府の工務司署(Public Works Department。現工務局(Works Bureau))に入り建築家として働き始めた。
公務員として働いていたが1941年に太平洋戦争が勃発し、日本軍が香港を攻めた時は皇家香港軍団(義勇軍)(Royal Hong Kong Regiment (The Volunteers))に参加し、日本軍と戦っている。日本軍が香港を陥落させたためライトさんは捕虜として日本軍に捕らえられていた。
終戦後、再び公務員として働き始めた。急速に経済発展をし、中国本土での混乱もあり香港は人口が急増し当時から住宅供給が問題になっていた。そのため公営住宅が建設されるも、台所はなく廊下やベランダでコンロを使って調理したり、トイレは共同だったりした。しかも便器が数個しかないため、割合にして数十人でシェアするという厳しい住環境だった。
イギリス系とはいえ香港生まれであるライトさんは香港に愛着を持ち、香港市民の生活向上をしなければならないという責任感があった。人間の尊厳を重視し、公営住宅の全ての家にキッチンとトイレの設置しなければならない「●勵德原則(Wright Principle)」というルールを制定。1952年から58年にかけて深水●(Sham Shui Po)に建設された「上李屋邨(Sheung Li Uk Estate)」が、初めてルールが適用された公営住宅となった。後に上李屋邨は老朽化を受けて1990年に取り壊され、1995年に楽年花園(Cronin Garden)として再建されている。
1963年になると工務司署のトップ「工務司(Director of Public Works)」に就任し1969年まで務めた。退任後は「駐倫敦弁事處專員(Hong Kong Commissioner in London)」(現在の「駐倫敦経済貿易弁事處(Hong Kong Economic and Trade Office, London)」としてロンドンに駐在。1973年にリタイアし、35年にわたる公務員人生に終止符を打った。
実はライトさんは公営住宅だけだはなく、獅子山隧道(Lion Rock Tunnel)、地下鉄(MTR)、香港大会堂(City Hall)、旧香港政府庁舎西座(Former Government Headquarters West Wing)など多くの香港のインフラ整備に関係するプロジェクトに携わっている。
香港政庁は多大な貢献をしたライトさんに敬意を表し、1975、76年に大坑(Tai Hang)に建設された公営住宅をライトさんの漢字名を用いて「勵德邨(Lai Tak Tsuen)」と名付けている。
●勵德=鳥へんにおおざと、●=土へんに歩