
香港で長年愛されてきた飲茶や広東料理を展開する「名都酒樓」が9月27日、最終営業日を迎え、35年の歴史に幕を下ろした。香港の飲茶文化の象徴として歴史に名が残る広東料理店の閉店に多くの人が別れを惜しんだ。
金鐘駅から直結のビル「統一中心」に当初は「統一酒樓」の名前で複数フロア展開していたレストランが1990年にワンフロアの「名都酒樓」として新たに開業したことから始まる。夜は100卓の丸テーブル、1200人、ランチは170卓を一度に収容できる巨大な酒樓は、3万1410スクエアフィートに昼の飲茶は2回転~2回転半、コロナ禍からは昨年時点で完全に復活していた。同店はもともと日本国内で聘珍樓を経営していた林家による香港の展開として2世代にわたり、飲茶をメインに香港一の都会でもある金鐘の駅で香港の地元の人にも愛されてきた。
今回の閉店の理由は不動産売却。香港科技大学の経営管理研究科(ビジネススクール)の入居が決まり、「よきタイミングでよき売り先が決まったこと」が閉店の理由だという。発表直後より「光栄結業」と書かれた表示を店内に掲出したが、これには、「35年の名都の旅が終わった。正しく従業員に約束を果たし、お客さまにもリスペクトを持つ閉め方をしたいという思いを込めた」という。
酒樓とはそもそも、庶民から観光客まで、朝はワゴン式の飲茶で始まり、「何でもあり」の広東文化を代表する大型レストランを示す。最初は「茶樓」で始まり、人と人が集まりお茶を飲みながら話す、交流が深まり、酒を酌み交わす場所として現在の酒樓に発展したといわれている。単なる食事の場を超えて「社交・宴会・家族の集まりの場」として発展してきた。同店オーナーの林衛さんは「特別な料理や凝った料理があるわけでないが、子どもから大人まで、アジア人でも外国人でも車いすの人でも、全ての人が快適に食事ができる普通の場所が名都だった」と振り返る。
同店の特徴の一つは可動式のカート。これもかつては従業員がトレーを首からかけメニューを運んでいたが、より多くの人がより多くの種類を食べることを望み、カートにガスを仕込んだ蒸し器でさまざまな種類を同時に展開できるようになった。酒樓の特徴の一つであるウエディングパーティーは時代の変化とともに減少したものの、同店では企業や団体、「同郷会」と呼ばれる中国本土の出身地域ごとの集まりなどで活用されることも多かった。時にはディスコパーティーの会場と化したり、ステージを設置しライブパフォーマンスが繰り広げられたり、スモークをたたせることすらあったという。
それでも住宅街でないこともあり、苦情が来ることもなかった。もともと香港のレストランは人の話し声や食器のぶつかる音など騒がしいことも特徴の一つだが、「うるさすぎて人の会話がBGMとなって逆に落ち着く感じもあった」と林さん。「実は場所柄、政治家や政府関係の人も多く来たが、店内の雑音がうるさすぎて逆に大事な話やプライベートの話ができるんだよと言われることもあった」とはにかむ。
同店は20年、30年以上働く従業員も多い中、35年変わらなかったことのひとつに制服がある。白いシャツや黒のパンツのシンプルなオールドスタイルだが、キャプテンはボウタイ(ちょうネクタイ)に白いシャツ、黒いジャケットのような伝統的なオールドスタイル。34年働いたシニアキャプテンの呉競初さんが入社した頃、同じ制服を着て働く様子も写真に収まっていた。同店には細い廊下に2人用のテーブルがある。これも20年前に「お客さまから置いてくれ」という要望がありスタートしたことの一つ。「ランチタイムは特に時間が限られているんだから、ここの廊下にスペースがあるじゃないか」と客から怒られ置いたことが定着した。点心のカートを押しながら、従業員が「蝦餃(ハーガウ)、焼売(シウマイ)、叉焼(チャーシュー)要唔要呀(いるの?いらないの?)」「快D食●(早く食べなよ~)」と積極的に客に話しかけていた。
「普通を極めた普通の場所」と林さんが名都を表現するが、「伝統的な材料を使い、全ての人が満足できる普通の店というのは実はとても難しいこと」とも。「『名都』のブランドは、店を閉めても生きている。觀塘の聘珍樓に家具やカートの一部は持っていく」と林さんは話す。「名都は安心や安全が約束された場所。場所や使い方にもバリアーがなく、点心や広東料理を通じた皆の居場所だったし、皆の生きる場所だったと思う」と締めくくる。
●=口へんに拉。