香港日本人倶楽部は12月10日、ハッピーバレーの香港セメタリー内にある香港日本人墓地で慰霊祭を行った。明治から昭和にかけて香港で活躍し、命を落とした日本人に祈りをささげるもの。今年も昨年同様、墓地にある萬霊塔と日本人倶楽部の会場をオンラインでつないだハイブリッド方式で、日系企業、日本人学校の教師児童生徒らが参列して献花した。
今年11月25日、長年香港政府と協議を続けてきた案内板が1枚設置された。この看板はおよそ470の日本人が眠っていることを解説したもの
ハッピーバレー競馬場の向かい側、アバディーン・トンネルにかかる丘の斜面に約7000 の墓石が並ぶ。同セメタリーには、日本人と家族の墓およそ 470 柱が点在し、その場所を総称して「香港日本人墓地」と呼ぶ。埋葬されているのは、明治時代 に亡くなった民間人が約 8 割を占め、当時の香港には、国家プロジェクトを託された駐在員、挑戦を続けた実業家、そして若い女性たちが暮らし、故郷の家族を想いながら、懸命に働いていた。
1分間の黙とうに続き、在香港日本国総領事岡田健一大使、香港日本人倶楽部を代表して、速水孝治副理事長が「追悼の辞」を捧げ、その後、参列者は菊の花を献花した。式典後、香港日本人倶楽部の会場では、「明治の香港と日本」と題して、葬者の活躍や当時の日本が香港で手がけた事柄など、歴史の解説を行った。
代表的な墓にまつわるストーリーをひも解くと、日本と香港の歴史が浮かび上がる。日本では、1868年に明治維新が起き、日本の国づくりが掲げた「殖産興業」「富国強兵」という目標を具体的に進めていくなか、船の航路を作るため、岩崎彌太郎が明治政府から船を譲り受けた。そして横浜、神戸、長崎の港から、まず上海、つぎに香港と、船の道(航路)を開拓していったが、その時、香港へ単身赴任したのが本田政次郎だった。1879(明治12)年10月、三菱の船「新潟丸」が、日本の商船としては初めて香港に到着。祝いのパーティーを開いてイギリス人たちをもてなした様子が当時の新聞に残っている。この墓地には、肺結核で香港で命を落とした本田と、その半年後に亡くなった部下の墓がある。
当時アメリカのドルやイギリスのポンドは、金本位制に基づく兌換(だかん)紙幣だった。日本は、明治時代の「脱亜入欧」の考えの下、銀貨を使うアジアから脱して、アメリカやヨーロッパのような「金本位制」を取り入れようとした。その際に鍵を握ったのも香港だった。1897(明治30)年、日本は金本位制に移行し、それまで使っていた銀貨が要らなくなったため、政府が銀を融資し、銀行が金に換えて国に返済。この任務を引き受けたのが横浜正金銀行の香港駐在員だったと見られる。ここで働いた副支店長の廣田耕吉と行員の中園修吾の墓もある。
日本ではあまり知られていないが、長州山口藩の学校でフランス語を学び、16歳のときに留学した湯川温作の墓もある。「レ・ミゼラブル(ああ無情)」の作者、ビクトル・ユゴーの日記にその名があるほどの人物で、香港を中継地として、5年かけてフランスで最も優秀なパリの理工大学に合格したものの病気となり、日本へ帰る船旅の途中、香港で亡くなった。
1894(明治 27)年、香港でペストが流行したときに、北里柴三郎が香港でペスト菌を発見したが、ここも香港と日本の関係は深い。香港領事が外務大臣に送った電報には、「伝染病研究所の北里と、東大医学部の青山胤道という2人の医学博士を香港へ派遣する段取り」について書かれていたという。当時の日本で最高の頭脳集団を、感染の真っ只中に送り込んだ。1894(明治27)年から7 年間は、ペストの流行が繰り返されて大勢が亡くなっている。
明治時代、香港には日本人女性が働く娼館があった。貧しい家の娘たちが香港や東南アジアに売られていったが、墓の中には、「木谷サキ」の墓のように「からゆきさん」と呼ばれ、香港で生活した彼女たちの遺骨も埋葬されている。
昨年、墓地の歴史を語り継ぐプロジェクトの一つとして、「香港セメタリーに眠る日本人の物語」と題した和文と英文のレポートが発表された。日本人倶楽部では、香港セメタリーに眠る日本人の記録の調査を今も続けている。
この墓地には日本の桜がある。香港という土地柄、一般的な日本のソメイヨシノは育たないことから、河津桜が選ばれ、 2002(平成 14)年 8 月に倶楽部へと寄贈されたもの。墓のそばにある桜は、満開になるのは旧正月の頃で、このうち 8 本が根付き、ピンク色の美しい花を咲かせる。