
香港4大デベロッパーの一つ、恒基兆業地産(Henderson Land Development)の創業者である李兆基さんが3月17日、97歳で死亡した。これにより4大デベロッパー創業者のうち生存しているのは香港ナンバーワンの大富豪で李兆基と同じ1928年生まれの李嘉誠さんのみとなった。
李さんは1928年、広東省順徳に第4子として生まれる。父親は為替を扱うビジネスをしており、李さんも事業を手伝っていた。金の取引も学ぶなど、「企業の血液」とされるお金の流れを勉強していった。息子にビジネスの才覚があると感じた李さんの父親は香港でビジネスを展開することを考え、李さんは父親から1000元を受け取って香港に渡航した。
来港後、上環(Sheung Wan)の文咸東街(Bonham Strand)で金や為替の取引のビジネスを始めた。そこで蓄えた資金を活用し、友人だった郭得勝さん、馮景禧さんら8人で不動産企業の「永泰企業」を1958年に創業する。当時の香港の不動産業界では新しい試みに取り組む。小規模の土地ながらも、ビジネスとしてのポテンシャルが高そうな土地の開発から始めた。新しく建てられた物件は、丸ごと一括購入するのが当時の慣例だったが、フロアごとなど分割して購入できるようにし、かつ10年の分割払いを認めた。これにより、大金持ちでなくても不動産ビジネスができるようになった。
ただし、この手法はほかのメンバーとのあつれきを生んだため、1963年になると李さん、郭得勝さん、馮景禧さんの「三劍侠」と呼ばれた3人が、新たに「新鴻基地産」の前身となる「新鴻基企業」を設立。李さんは副主席に就任する。
新鴻基が存在感を増したのは、1965年に発生した金融不安による土地の低迷。不動産価格は盛り返すと考えていた3人は、安値で香港中の土地を買いあさり、約3年間で20棟のビルを建設する。その後、香港経済は再び回復基調に乗り、その上、1966年ごろから文化大革命の影響で香港に大量の移民が押し寄せてきたこともあり、不動産需要が急騰。会社は大きく成長した。
1972年になると新鴻基企業は組織改編を行い現在の「新鴻基地産」となり、その後、上場も果たす。その後、3人は別々の道を歩むことを決断。上場で多額の富を手に入れていた李さんは新たに恒基兆業地産を1973年に設立し、現在に至る。
同社が関係する不動産は、中環(Cental)の国際金融中心(IFC)やザハ・ハディド・アーキテクツがデザインした「The Henderson」、將軍澳(Tseung Kwan O)の新都城(Metro City Plaza)があるほか、小売りでは、UNY、APITAの名前を香港で利用できるライセンス契約を結んでいる。「Towngas」の名称で知られている「香港中華煤氣(The Hong Kong and China Gas)」も保有。ほかにも、香港小輪(集團)(Hong Kong Ferry(Holdings))、尖沙咀(Tsim Sha Tsui)にあるホテル「The Mira」とショッピングモールの「Mira Place」を運営するほか、美麗華旅遊(Miramar Travel)も経営している。
李さんは株の運用にもたけており、年始や経済的な動きがあると、今後の景況感や株価についての見解を問われることが多く、そのコメントが新聞紙上などをにぎわせた。
その結果、李さんは香港屈指の富豪となった。経済誌「フォーブス」の2025年版の香港長者ランキングでは、1位は長江和記実業の創業者の李嘉誠さん(373億米ドル=5兆6,000億円)で2位が李さんの292億米ドル(4兆4,000億円)だった。